リーフィアと歩む緑の軌跡

大好きなリーフィアとともに歩む日常。最近はクトゥルフ神話TRPGを嗜んでいる。

短編一次創作「新年のご挨拶は実家にて」

新年明けましておめでとうございます今年もよろしくお願いいたします(遅い)、ざっそうを愛する猫です。

この度は、2019年を祝うべく年末年始から自己満足で書き続けてきた、猫の探索者を主人公とした短編小説を載せようと思います。「短編」と言いながら約12400字あるので、巷で「それはもはや短編と言わないのでは?」という話が聞こえてきたような気がしますがきっと気のせいです。空耳です。

毎度のことながら身内感満載のため、簡単な人物紹介を付けておきますが、読まなくてもそれとなく大雑把な空気は味わっていただけるかと思います。

この度も探索者の使用どころか台詞発注を快く引き受けてくださった(もとい突然台詞をぶん投げ付けてきた)ツキナミさんと、Twitterに文面を載せる度にいいねボタンを押してくださったぴーさんに最大限の感謝を込めて。

拙い文章ではありますが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

 

【人物紹介】

草加怜(34歳男性/医者/PL:猫)
草加家の次男。草加診療所という名の小規模な診療所を営む鋼メンタルの医者。重度のお人好しにして猫が匙を投げる程の鈍感系主人公。現在は草加翡翠と同居している。クトゥルフ神話技能28。

ミフネ・ムレーヌ(30歳男性/薬剤師/PL:ツキナミ)
毒吐く(元)闇医者。草加診療所の薬剤師にして、翡翠の戸籍謄本を偽造した張本人。最近、諸事情により同居人(家政婦)が増えたらしい。クトゥルフ神話技能34。

草加翡翠(17歳少女/メイド/PL:猫)
草加怜と同居している少女。元々は人造人間とでも呼ぶべき存在だったが、奇跡的に一命を取り留め、現在は人間としての生活を享受している。料理は得意分野。クトゥルフ神話技能3。 

草加隼人(37歳男性/ビジネスマン/PL:猫)
草加家長男。電子工学系の企業で営業を担当しているサラリーマン。とある小説家と共に謎の空間に囚われ、生と死を何度も行き来する目に遭った以外は至って真面目で普通の人。クトゥルフ神話技能0。

草加葵(29歳男性/私立探偵/PL:猫)
草加家三男。草加探偵事務所という名の小規模な探偵事務所を営む男性。何度か名状しがたき体験をした結果、車および電車恐怖症(閉所恐怖症)と反芻言語、とある人物への恐怖症を発症している。また、謎の空間でとある少女を殺害したことを密かなトラウマとして抱えている。クトゥルフ神話技能9。

 

 

 

「新年のご挨拶は実家にて」

 

 先程まで耳に当てていた受話器を置き、深々と溜め息を漏らした。
 近くにあった受付用の椅子に座り、どうするべきか十数秒考えを巡らせる。しかし、妙案は思い浮かばなかった。簡単に解決できる問題なら自力でどうにかしているが、この手の謀が不得手な自分には打つ手が思いつかない。
「行ってきたらどうですか」
「き、聞いてたんですか!?」
 突然背後から声をかけられ、堪らず声をかけてきた人物へと向き直る。白衣を羽織り、薄く微笑む三十代程の男性は「別に盗み聞きするつもりはなかったんですが」と、特に悪びれた様子もなく答える。
「で、どうするんですか? ご実家からでしょう、今の電話」
「それは……」
 男性の言う通り、先程の電話は実家の母からかかってきたものだ。内容としては「一日くらいは実家に帰ってきなさい」という催促。例に漏れず、草加診療所も三が日まで休業日であり、それを察知した母から釘を刺されたのだ。確かにここ数年、多忙を理由にまともに顔を見せていなかったのだが、今年は事情が違う。
 今の草加診療所には「草加翡翠」という同居人がおり、彼女の存在を実家に一切伝えていないのだ。自分一人だけで実家に帰省するのは容易いが、いずれは「空から降ってきた元機械人形」という不可思議な存在について説明せざるを得なくなる。
 と、再度苦悩しかけた眼前に書類が突き出された。普段は見慣れないだろう「それ」は、草加の前にいるこの男性、ミフネ・ムレーヌが昔馴染みの伝手を頼って偽装した翡翠さんの戸籍謄本だった。
「いい機会です。これを持って『親も兄弟も知らない遠い親戚の子を預かることになりました。報告が遅れてごめんなさい』って報告しに行ってください」
「え、いやそれは……」
「私だって草加さんが不在中に『偶然』来院した草加さんの身内に『草加翡翠』さんという『同姓』で『同居中』の『異性』で、しかも『未成年』について説明を求められたら嫌ですからね」
 ぐうの音も出ない正論だった。そもそも、自分の実家は都内にある。ミフネさんの言うような状況になる可能性は十分にある。むしろ、今までよく翡翠さんと自分の親族が遭遇しなかったものだ。
「そ、そもそも『草加』なんて珍しい同姓にしなければここまで面倒な話にはならなかったんじゃ……」
「仮にそうした場合、事情の知らない患者さんから『あの医院は未成年の女の子を学校にも行かせず家に住まわせている』って噂になりますよ? 一度噂になったものはそう簡単には消えませんし、いらない尾鰭も付きます。身分を隠して静かに暮らそうとするなら、全く関係ない名前を付けるより、他人が関係性を勝手に勘違いしてくれる名前にする方が楽なんですよ」
 さすがは元闇医者。こういう言い方は失礼だろうが、説得力が段違いだ。うまい具合に逃げ道を封じられているような気もするが、彼が自分や翡翠さんのことを考えて行動してくれているのは十分理解できる。それなら、自分が何もしないわけにはいかないだろう。
「分かりました。これも何かの機会でしょうし、罪悪感を押し殺して行ってきます」
「はい、どうぞ行ってきてください。緊急対応できるように医院にいるつもりですから、急患の連絡が来ても帰ってこなくていいですので気兼ねなく」
 有り難い話ではあるが、それにしても用意周到すぎやしないか。そう言いたくなる気持ちを押し殺し、突き出された戸籍謄本を渋々受け取った。

 

 「怜兄が実家に女性を連れてくる」という話を少し興奮気味の母から聞いたときは、思わず携帯電話を落としかけた。ただ、詳細を聞けば、どうやら預かっている遠縁の親戚の子どもを連れてくるだけらしい。
 そうはいっても、俺の知る限り草加家の親戚で十七歳の少女なんて聞いたことがない。怜兄に限って未成年に手を出したとは思えないが、それにしても唐突な話だった。興味本位で軽く調べてみたら、確かに「草加」という苗字の少女らしい。珍しい苗字ではあるが、俺の家族以外に見かけないというものでもない。
 ともかく、兄弟が揃うだなんて本当に久しぶりのことだ。相変わらず客の少ない探偵事務所を年始に合わせて早々に閉め、身支度を整えてから実家に向かってバイクを走らせた。
 然程混んでいない道を走ること一時間程度、昭和な雰囲気を醸し出す和風の二階建ての屋敷までやって来た。門の奥にバイクを停め、引き戸の玄関扉をガラリと開ける。数年ぶりに帰省したとはいえ、特に変わり映えもしない実家の様子に少しだけ安堵する。
 居間に行けば、年始でも変わらず背広に身を包んだ男性が一足早く炬燵に座って暖を取っていた。俺よりも一回り年上のはずなのに兄弟の中で最も身長が低く、そして誰よりも真面目な長男だ。
「葵か、久しぶり」
「久しぶり。隼兄も相変わらずだな」
 相変わらず、という言葉に対して隼兄は苦笑いを浮かべるだけに留め、炬燵に入った俺に対して蜜柑を差し出す。それを受け取って皮を剥きながら話を切り出した。
「母さんから聞いたか? 怜兄が未成年の女の子連れてくるって。そんな趣味だったっけ」
「趣味な訳ないだろ。お人好しな怜のことだから、断れずに預かってるだけだろう」
 冗談のつもりで言ったのだろうと思ったのか、隼兄はそれ以上追求してはこなかった。隼兄が三兄弟の中で最も真面目な人種なら、怜兄は三兄弟の中で最もお人好しな人種だ。誰某構わず、自分が助けられる範囲であれば助けようとする次男にとって、医者という職業は天職だった。そんな怜兄に対し、隼兄が良からぬ想像をするはずがなかった。
「最近はどうなんだ、仕事は順調か?」
「仕事? いや、別に変わったことは、何も……」
 仕事関係は普段通り、特に変わりない。ただ「それ以外」では決して良いとは言えない。過去に自分が巻き込まれた幾つかの事象は、今も尚暗い影を落としている。
「どうした、顔色悪くないか」
「わ、悪くねえよ。そういう隼兄はどうなんだよ。家族で集まろうだなんて急に言い出したの、隼兄なんだろ?」
「ま、まあそうなんだが……何度も死ぬような目に遭うくらいなら、今の内にやりたいことをやるべきだと思ってな」
「隼兄こそ何言ってんだよ。人は、一度死んだら生き返らねぇよ」
「あ、ああ……そうだな」
 何とも不可思議な会話だと思ったが、隼兄の表情が至って真面目だったので茶化すことも憚られた。それに「一度死んだら生き返らない」だなんて、未だに後悔している自分に気付き、舌打ちしたい気分になった。
 二人の間を支配した妙な沈黙は、玄関扉をガラリと開けた音によって途絶えた。母さんは料理の準備のために台所に、父さんは二階の自室にいるはずだ。そうなれば、可能性は一つしかない。
「二人共、もう来てたのか」
 居間に顔を見せたのは怜兄だった。隼兄とは違って仕事着ではなく、セーターにズボンという至ってシンプルな服装だ。そして、怜兄の後ろで見え隠れする影が一つ。
「その子が、例の遠い親戚の子どもか」
「ああ。兄の隼人と、弟の葵だ。二人共、彼女は草加翡翠さん」
「初めまして、草加翡翠です。よろしくお願いします」
 少女は怜兄の後ろからおずおずと一歩前に出て、俺達に頭を下げた。透き通るような白髪とこちらを見つめる琥珀の瞳が印象的な子だ。黄色を基調としたシンプルなワンピースが、少女の可愛らしさを更に引き立たせている。
「ところで、二人だけか? 父さんと母さんは?」
「父さんは部屋。母さんは台所」
「じゃあ、先に母さんだな。二人には後で事情を話すから」
 そう言うと、怜兄と、翡翠と名乗った少女は居間の奥へと消えていった。奥には台所があるので、母さんに話をしに行ったのだろう。それにしても、あんな可愛い子をどうして怜兄が預かることになったのか。
「随分と可愛い子だな。礼儀も良さそうだし」
「……礼儀は、な」
 少しの引っかかりを覚えながら、俺は皮を剥いた蜜柑を一切れ口の中に放り込んだ。


 日頃の行いは大切なものだとしみじみと感じた一日だった。
「遠縁の親戚が、都合により家族全員で海外に行かなければならなくなった。しかし、翡翠さんは日本を離れたがらなかった。そこで、未成年である彼女を自分が引き取ることになった」
 自分でも無茶な言い訳だと思ったが、ミフネさんならいざ知らず、人を騙すことに疎い身としてはこれが限界だった。ただ、父さんは持参した戸籍謄本を見て納得してくれたし、母さんに至っては詳しい話をする前にお節料理を手伝ってくれた翡翠さんのことを可愛がっていた。母の指南の下で作った翡翠さんのお雑煮を「美味しい」と言って褒めている兄の隼人の様子を見る限り、こちらも問題はないだろう。
 ただ一人、翡翠さんに疑惑の目を向けている弟の葵を除いて。
「なあ、怜兄。ちょっといいか」
 夕食に母さんのお節料理と翡翠さんのお雑煮を頂いている間、葵から呼び出された。葵の後を追いかける形で、居間を離れて縁側へと移動した。縁側には雲間から月明かりが射し込んでおり、遠くから僅かだが居間で騒ぐ声が聞こえてくる。
「どうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃねえよ。怜兄、嘘吐いてるだろ」
 咄嗟に言葉が出てこなかった。葵の言葉はひどく静かで、それでいてこちらを見透かしたような声色だった。
「一応、これでも探偵だからな。人の嘘には敏感なんだよ」
 葵はまっすぐにこちらを見つめている。明らかにこちらの言い分が偽りであると見抜いているのだろう。草加家の三兄弟の中で最も才能に恵まれているのが葵だ。側から見れば何かと斜に構えて気楽そうに見える弟だろうが、物事の機微を見抜く力には特に優れている。
「怜兄が誰かに騙されたり脅されたりして嘘を吐いてるとも思ったけれど違うみたいだし……それなら、嘘を吐く理由は一つしかないはずだろ」
 自分ではこれ以上隠しきれないだろう。一つ軽く息を吐き、徐に口を開いた。
「……翡翠さんのため、だよ」
「その翡翠さんだけど、少し調べた限り日本育ちだった。それにしては、お節やお雑煮を見て随分と驚いてたよな。まるで、実物を見るのが初めてみたいに」
 葵には翡翠さんの戸籍謄本を見せていない。考えられるとすれば、実家に帰る前に別の手段を用いて調べたのだろう。
 実際、翡翠さんにとっては初めての正月だ。もちろん、知識はあるだろうが経験はない。記憶があっても実物を見たことがない。当然、それを見れば興奮してしまうのも仕方ないことだ。さらに「これが草加さんのご実家の味ですか」と意味深長に頷きながらお雑煮の味付けをしていたので、葵がそれを不審に思うのも理解できないわけではない。
「怜兄。変なことを聞くかもしれねえけど……本当はあの子、何者なんだ?」
 単純に察しがいいのか、それとも翡翠さんを怪しむが故の言動か。自分の身に起きた常識では語れない不可思議な体験が脳裏に浮かび、どのように答えればいいのか反応に困った。ただ、どんなに考えても答えは一つしか思いつかなかった。
「彼女は人間だよ。ちょっと世間に疎い割に好奇心が旺盛で料理が好きな、普通の女の子だ」
「人間の女の子、か……」
 一瞬、こちらの言葉を聞いた葵が妙な感傷に浸っていたような気がしたが、気のせいだろうか。
「……分かった。これ以上は何も追及しねえし、父さんや母さん達に告げ口もしない。ただ、何か困ったことがあればいつでも言えよ」
「ああ、すまないな」
「すまないなんて謝るくらいなら、せめてもっとマシな嘘吐けって。あんなので何も言わないの、うちの家族くらいなもんだぞ」
「そ、それは……うん、悪かった。じゃあ先に戻るからな」
 自分でも無茶だと承知の上だったので葵の言い分には素直に頷くしかなく、きまりが悪くなって足早にその場を後にした。


 怜兄を呼び出したのは他でもなかった。怜兄が家族に嘘を吐いてまで同居させようとしている少女が何者なのか、直接問い質そうと思ったからだ。
 職業柄いろんな人を見てきた経験と過去に巻き込まれた理不尽な体験から、彼女は「何かが違う」と感じたのだ。それこそ、言葉では言い表せないような「何か」そのものであるかのように。
「どうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃねえよ。怜兄、嘘吐いてるだろ」
 前置きもなく言い放った言葉に、怜兄は明らかにたじろいだ。ほんの少しだけ抱いていた期待は脆くも崩れ去った訳だが、逆にもっと気になってしまう。嘘を吐くのが苦手な怜兄にここまでさせるあの少女は、一体何なのか。
「一応、これでも探偵だからな。人の嘘には敏感なんだよ。怜兄が誰かに騙されたり脅されたりして嘘を吐いてるとも思ったけれど違うみたいだし……それなら、嘘を吐く理由は一つしかないはずだろ」
 そこまで言って怜兄の答えを待つ。しばらくして何か諦めたかのように一息吐くと、徐に口を開いた。
「……翡翠さんのため、だよ」
「その翡翠さんだけど、少し調べた限り日本育ちだった。それにしては、お節やお雑煮を見て随分と驚いてたよな。まるで、実物を見るのが初めてみたいに」
 出発前の調べ物がこんなところで役立つなんて皮肉としか思えなかったが、それがあったからこそ少女の言動に違和感を覚えたと言ってもいい。考えすぎかもしれないが、やはりあの少女には何かあるのではないか。
「怜兄。変なことを聞くかもしれねえけど……本当はあの子、何者なんだ?」
 「何者か」というより「何か」と聞きたかったが、さすがに憚られた。思い出しただけで怖気立つような、あんな不気味な体験をするのは自分だけで十分だ。
「彼女は人間だよ。ちょっと世間に疎い割に好奇心が旺盛で料理が好きな、普通の女の子だ」
 しかし、怜兄の返答は予想に反して穏やかで、それでいて胸がすくような一言だった。今の怜兄の言葉に嘘はない。紛れもなく怜兄の本心だと確信が持てた。
「人間の女の子、か……」
 ふと、夢か現か判別できない空間での記憶が蘇る。もし、あの時何かしていれば彼女を救えたのだろうか。そんな選べなかった未来を想像しそうになった自分に気付き、慌てて話を戻した。
「……分かった。これ以上は何も追及しねえし、父さんや母さん達に告げ口もしない。ただ、何か困ったことがあればいつでも言えよ」
 怜兄が本心から「普通の女の子」だと言うのなら、すぐに息巻く必要はないだろう。結果的に、俺はそう判断することにした。
「ああ、すまないな」
「すまないなんて謝るくらいなら、せめてもっとマシな嘘吐けって。あんなので何も言わないの、うちの家族くらいなもんだぞ」
「そ、それは……うん、悪かった。じゃあ先に戻るからな」
 そそくさと退散した怜兄の背中を見送り、俺も居間に戻ろうとして振り返る。
「……で、怜兄がああ言う以上は何も言わねえけど、それはそれとして盗み聞きはよくないだろ」
 図星を突かれて焦ったのか、縁側の曲がり角の奥から僅かに物音が聞こえる。しばらくすると、白髪の少女……翡翠がおずおずと顔を覗かせた。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんです……」
 翡翠が持っていたのは、先程まで居間で振る舞われていたお雑煮が入っていた小鍋だ。恐らく、台所まで追加の具材を取りに行こうとして縁側を通りかかったのだろう。この家の構造上、縁側を通らなければ台所まで辿り着けない。俺と怜兄が話しているのを見かけ、どうしようか考えあぐねていたようだ。
「……そんなつもりがないことは何となく分かったから、そんなに落ち込むなよ」
 先程まで彼女のことを警戒していた身としては、面と向かって話すのは何となく気が引けた。こちらの思いを知ってか知らずか、翡翠は無邪気に笑いかけてくる。
「優しい方なんですね、葵さん」
「はぁ? 優しい!?」
 予想外の言葉に思わず語尾が荒げた。知り合いは勿論のこと、家族からもほとんど言われたことがなく、捻くれ者の自分とは不釣り合いな言葉だ。
草加さんのことを心配して、ああして言ってくださったんですよね」
「心配? 怜兄が何をそんなに隠してるのか気になっただけだっての」
「やっぱり草加さんの弟さんなんですね。そっくりです」
 毒気が抜けるというか気が抜けるというか、彼女が見せる純粋な反応は捻くれ者の身としてはどこか眩しかった。
 だから、つい口を出したくなったのかも知れない。勿論いい意味で、だ。
「……『草加さん』って呼び方」
「はい?」
「はい、じゃねえよ。ここに何人の『草加』がいると思ってんだ。兄貴の名前は知ってるんだから呼べばいいだろ」
 何ならお前も『草加』だろ、と心の中で呟いていると、先程まで何を言っても微笑みを絶やさなかった翡翠が途端に戸惑いつつも目線を逸らしているのに気付いた。こちらの視線に気付き、至極困ったことのように尋ねてくる。
「何故か分からないんですが、『怜さん』って言いにくいんです。私、何かがおかしいんでしょうか……」
「言いにくいっていうか、それって単に恥ずかしいだけじゃないのか?」
 俺に言われたことがそんなに驚いたのか、翡翠は目を何度も瞬きさせた後、顔を赤らめて目を伏せてしまった。怜兄の反応見たさで提案したのだが、まさかここまで初々しいとは。言った側からちょっとした罪悪感に襲われてしまう。
「雑煮って結構重いだろ。帰りくらいは俺が持って……っ」
 せめてもの償いとして翡翠の持っていた鍋を取り上げるべく手を伸ばそうとして、不意に目の前の少女と別の少女の面影を被らせてしまう。
 直後、差し伸べた自分の手が真っ赤に染まっていることに気付いた。咄嗟に引っ込めようとした手に握られている銀のナイフが鮮血で赤く染まっている。先程まで何もなかった服はすっかり返り血に塗れていた。
 喉から出しかけた声を辛うじて押し止められたのは、誰かが血塗れの手を握りしめた感触があったからだ。
「落ち着いてください、大丈夫ですから」
 目の前にいる少女が、両手で俺の手をぎゅっと握りしめている。こちらを見上げる琥珀色の瞳は、足下に落ちた小鍋にも目をくれずに俺の顔を映し出す。手から伝わってくる人の温かさを感じてふと自分の手を見れば、先程まで見えていた返り血もナイフも無くなっている。過去の出来事がフラッシュバックしただけだと自分の理解が追いつくまでには、少し時間がかかった。
「平気、ですか?」
「……平気、だよ」
 俺の顔色を伺う翡翠の手を軽く振り解き、平静を装いながら返事をしたが、翡翠は尚も疑念の眼差しを向けてくる。
「嘘です。まだ顔色が悪いです」
「嘘じゃねえから、もういいって。どうにかなるもんでもねえよ」
 自分自身、いい顔色ではないだろうというのは察しが付く。ただ、こればかりはどうしようもない。それこそ、あんな結末を迎えてしまった不甲斐ない自分にお似合いの末路なのだ。
 ふと、足下に転がっていた小鍋に気付き、拾い上げる。ステンレス製の小鍋は割れておらず、残った雑煮の汁が僅かに底にあるだけだ。あの時、翡翠はこれを床に放り投げてまで、混乱する自分の手を握ってくれたのだろう。
「……ありがとう」
 思わず口から漏れてしまった一言が彼女の耳に届いていないことを切に願いつつ、拾い上げた鍋を小脇に抱える。
「ほら。とっとと雑煮取りに行かねえと、そろそろ父さん辺りが騒がしくなる頃合いだぞ」
「はい」
 やけに嬉しそうな笑みを浮かべた翡翠を連れて、俺達は台所へと向かった。


翡翠ちゃん。お雑煮取りに行ってくれないかしら」
「はい、分かりました」
 草加さんのお母様から空の小鍋を預かり、居間を出る。台所に向かって少しだけ肌寒い廊下を歩いていると、行き先から誰かの声が聞こえた。
「……随分と驚いてたよな。まるで、実物を見るのが初めてみたいに」
 縁側では草加さんと、草加さんの弟だという葵さんの二人が何やら話をしている。確か、この縁側の奥に台所があるはずだが、やけに緊迫した雰囲気の二人の間を割ってのは躊躇われた。
「怜兄。変なことを聞くかもしれねえけど……本当はあの子、何者なんだ?」
 心臓が一段と跳ねた気がした。何者か、と言われれば私自身上手く答えられない。人ではない存在が創り出した、人間の真似事をして動く機械人形だったもの。本来であれば、ここにいることすら叶わなかった物だ。
 草加さんは、何て言うのだろうか。
「彼女は人間だよ。ちょっと世間に疎い割に好奇心が旺盛で料理が好きな、普通の女の子だ」
 それがいかにも当たり前のような、自然な声色だった。自分の知る限り、草加さんは人を貶めるような嘘を吐く人でない。この言葉は紛れもなく草加さんの本心で、だからこそ自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。
「人間の女の子、か……」
 一瞬返答に困ったのか、葵さんが何かを思い悩んだような気がしたが、すぐに元の調子で言葉を紡いだ。その時には既に、二人の間を隔てていた張り詰めた空気は消え失せていた。
「……分かった。これ以上は何も追及しねえし、父さんや母さん達に告げ口もしない。ただ、何か困ったことがあればいつでも言えよ」
「ああ、すまないな」
「すまないなんて謝るくらいなら、せめてもっとマシな嘘吐けって。あんなので何も言わないの、うちの家族くらいなもんだぞ」
「そ、それは……うん、悪かった。じゃあ先に戻るからな」
 そう言って先に草加さんが居間へと戻って行った。あとは葵さんが離れてから台所に向かおうと考えていたが、予想に反して彼はその場で振り返る。
「……で、怜兄がああ言う以上は何も言わねえけど、それはそれとして盗み聞きはよくないだろ」
 いつから気付いていたのだろうか。一歩、後ろに引き下げた足下の床が僅かに軋んで音を立てる。
 あからさまに音を立ててしまった以上、このまま何もなく立ち去れるとは思えない。意を決し、私は曲がり角の奥から飛び出した。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんです……」
 先程まで私のことを信用できないと宣言していた相手に信じてもらえるかは分からないが、ともかく正直に事情を伝えるしかない。
「……そんなつもりがないことは何となく分かったから、そんなに落ち込むなよ」
 ただ、何故かは分からないが、葵さんはそれ以上の話をしなくても構わないと先んじて言ってくれた。確か、自己紹介の時に職業が探偵さんだと仰っていたので、何かを察してくれたのかも知れない。
 そう思いながら、草加さんよりも高い位置にある彼の顔を見上げれば、先程草加さんと話していた時に比べて少しだけ落ち込んでいるように見えた。ひょっとして、私を疑ったことを後ろめたく思っているのだろうか。
 元はと言えば、私が普通に生活できるようにと草加さんとミフネさんがいろいろしてくれたとはいえ、怪しいのが当たり前なのだ。葵さんが私のことを警戒するのも、草加さんのことを心配するのも、間違ったことではない。
 でも、葵さんは草加さんの言葉を信用して、私に対して気を配ってくれたのだろう。
「……優しい方なんですね、葵さん」
「はぁ? 優しい!?」
 彼はやけに動揺したようで語尾を荒げたが、私からすれば至極当然のことのように思えた。
草加さんのことを心配して、ああして言ってくださったんですよね」
「心配? 怜兄が何をそんなに隠してるのか気になっただけだっての」
「やっぱり草加さんの弟さんなんですね。そっくりです」
 自分よりも他人のことを考えるところとか、何気なく人に優しくできるところとか、本当にそっくりだと思う。ただ、当の葵さんは何故か気まずそうに肩を竦めた後、話題を変えてきた。
「……『草加さん』って呼び方」
「はい?」
「はい、じゃねえよ。ここに何人の『草加』がいると思ってんだ。兄貴の名前は知ってるんだから呼べばいいだろ」
 言われてみればそうかもしれない。私も『草加』という名字を名乗っていいことにしてもらえたので、このままだと被ってしまう。草加さんは私のことを「翡翠さん」と呼んでくれるのに、私だけ名前で呼ばないのもおかしな話だ。
 「怜さん」と、心の中で呟いてみる。途端に、何故かよく分からないが頬が火照るような気がした。
 ふと、視線を感じて見上げれば葵さんが何度か横目でこちらを見ていた。
「何故か分からないんですが、『怜さん』って言いにくいんです。私、何かがおかしいんでしょうか……」
 今の気持ちを正直に伝えてみたら、葵さんは少し驚いたような表情を浮かべたものの私の疑問にすぐ答えてくれた。
「言いにくいっていうか、それって単に恥ずかしいだけじゃないのか?」
 草加さんのことを名前で呼ぶだけなのに躊躇われる。でも、草加さんがどんな風に反応してくれるのか気になってしまう。対立する二つの思いが私の中でせめぎ合っている。でも、胸に詰まったこの気持ちは決して嫌なものではない。これが「恥ずかしい」という気持ちなのだろうか。
「雑煮って結構重いだろ。帰りくらいは俺が持って……っ」
 私が悶々と悩んでいるのを見かねてなのか、葵さんが言葉を投げかけて、しかし不自然に途切れる。違和感を覚えて視線を向けると、葵さんの様子がどこかおかしいのはすぐに分かった。
「あ、葵さん……?」
「……だ、違う、そんなつもりじゃ……」
 明らかに「何か」に怯えている。一瞬、私に対して怯えているのかと錯覚したが、葵さんの目線は私に向いていない。まるで葵さんだけに別のものが見えているように、握り締めている物を手元に引き寄せて……。
「葵さん!」
 嫌な予感がして小鍋をその場に放り捨て、私は葵さんの手を掴んだ。
 その瞬間、葵さんは我に返ったようで、握られた手と私の顔に視線を向けてくれた。わたしはほっと溜め息を吐きつつ、呼吸を整えて動揺が表に出ないように努めながら声をかける。
「落ち着いてください、大丈夫ですから」
 葵さんの手を両手で強く握りしめていると、彼の手の震えが少しずつ収まっていくのが分かった。荒い呼吸も何とか整いつつある。
「平気、ですか?」
「……平気、だよ」
 と、葵さんは私の手を軽く振り解き、その手を虚空でひらひらと揺らして返答する。先程のような怯えた様子は見られなかったが、顔色はやや悪く、体調的に万全であるとは思えなかった。
「嘘です。まだ顔色が悪いです」
「嘘じゃねえから、もういいって。どうにかなるもんでもねえよ」
 でも、と更に言葉を紡ごうとした私は、彼の表情を見て咄嗟に口を噤んだ。葵さんはやけに寂しそうで、ただどこか割り切っていることに気付いてしまったのだ。
 これは、私が干渉していい問題なのではないのだろう。カウンセリングなどの精神療法で解消するとしても、彼自身それを望んでいない。優しい彼は、何があったとしても最期まで自分の問題として抱え込むつもりなのだろう、と。
 私が呆気に取られている間に、葵さんは足下に転がっていた小鍋に気付き、拾い上げる。その時、彼の口から「……ありがとう」と溢れたのが聞こえてきた。それが誰に対して発せられたものなのか、彼が気まずそうに横目でこちらを見ていることから予想がついてしまった。
「ほら。とっとと雑煮取りに行かねえと、そろそろ父さん辺りが騒がしくなる頃合いだぞ」
「はい」
 事実とはいえ「優しい」と言ってしまえばまた気を悪くするだろうから、せめて返事だけは元気よく返し、台所へ向かう彼の後を追いかけた。

 

 当初、日帰りの予定のはずだったのだが、昨晩は実家で一泊することになってしまった。母が翡翠さんを気に入ったのも原因の一つだが、やはり翡翠さんが和式の建物や家具に興味を引かれていたことが大きかった。診療所の二階にある居住空間に和室はないし、フローリングの床で布団を敷く機会は終ぞなかった。畳の上でごろごろ嬉しそうに寝転がる彼女の姿を見て「すぐに帰ろう」と言い出しにくいのも仕方ないことだと思う。
 内心、こうして実家に帰省している間も診療所に控えてくれているであろうミフネさんに頭を下げながら連絡を入れたら「ご勝手にどうぞ」と返信がきた。最近は頼ってばかりだな、と反省しつつお言葉に甘えることにした。
 次の日の朝食後、車の暖房を入れておこうと外に出ると、近くからエンジン音が聞こえてきた。少し顔を覗かせれば、敷地内に停めてあったスクーターバイクのサドル部分の収納からヘルメットを取り出す葵の姿があった。
「もう帰るのか?」
「ああ、先に帰る。実家で寛いでいるのも飽きたしな」
「そんなこと言って、また母さんに小言を言われるの嫌なんだろう?」
「嫌に決まってるだろ」
 そう言って、葵は悪戯をしでかした子どものようなバツの悪い笑みを浮かべる。こういうところは小さい頃から何も変わっていない。
「……バイクの免許取ったのか」
「ああ。免許って楽に取れるもんなんだな。気ままに動けるから結構便利だよ」
「そうか……」
 言葉がうまく繋がらず、不自然な間が続いた。昨日の今日で何と言っていいのか言葉に詰まってしまう。
「……怜兄、そんな気に病むことねえよ。逆にそうやって気まずい雰囲気出される方が嫌なんだけど」
 不意に葵が放った言葉にハッとさせられた。一方的に隠し事をしている状況ではあるが、だからと言って無理に壁を作る必要はないのだ。こちらの事情を推し量った上で「それでもいい」と言ってくれたのなら、その気持ちに応えないことこそ嘘だろう。
「……次は気を付けるよ」
「そういうところ律儀だよな。じゃあな怜兄、あの翡翠とかいう奴にもよろしく」
「分かった」
 こちらの返事を聞いて満足気に微笑んだ葵は、抱えていたヘルメットを被り、バイクを走らせて行ってしまった。
「……葵さん、帰っちゃったんですか」
「ああ。『翡翠さんによろしく』って言ってたよ」
 バイクの影を見送っていると、後ろからかけられた言葉に反応して振り向けば、翡翠さんが実家の方から駆け寄ってくるところだった。
「そうですか、ご挨拶したかったんですけれど……残念です」
「またお盆に会うことになるさ」
「お盆ですか。そしたらまた連れてきてくださいね、怜さん」
「それはもちろ……んん??」
 今のは聞き間違いか? そう思って翡翠さんの方を向けば、彼女も若干恥ずかしそうにこちらを見上げていた。
「あ、葵さんに言われて言ってみたんですけれど、やっぱりおかしいですか?」
 あの生意気な弟め、翡翠さんになんてことを教えたんだと心中で毒付く。学生時代ですら友人に名字で呼ばれることの方が多かった身だ。それなりに大人と言える年齢になって名前で呼ばれるというのは、やはりどこか気恥ずかしい。
 ただ、嫌な気分にはならなかった。
「……いいや、翡翠さんが言いやすいならいいんじゃないかな」
 翡翠さんが言いたい呼び方でいいよ、と付け加えれば、彼女は安心したように軽く一息吐いてから「これでお揃いですね」と、嬉しそうに微笑んだ。
 彼女から差し出された手をそっと握り返す。名前呼びの気恥ずかしさが抜けないまま、翡翠さんと一緒に荷物を取りに実家へと戻った。