リーフィアと歩む緑の軌跡

大好きなリーフィアとともに歩む日常。最近はクトゥルフ神話TRPGを嗜んでいる。

短編一次創作「葵君、草加探偵事務所を発つ」

巷で話題の台風19号に備えて家で引きこもっている猫です、こんばんは。
こちらは、先日置物様作CoCシナリオ「スクワレルモノ」にPLとして参加した猫が、セッション終了後に衝動に駆られて作った短編小説です。

やりたいことが多すぎて猫の自己満足要素多めな上、PLの皆様やKPの方にご協力を仰いだ結果、多数の探索者が参加しています。また、短編の最後には、むつー様作CoCシナリオ「傀逅」のセッション中の妄想も含まれています。つまり、書きたいことをつぎ込んだだけの短編となってしまったことをお許しください。

この場をお借りして、台詞を提供してくださったPLのツキナミさん・あささん・ぴーさん、NPCの詳細設定の提供およびタイトル案を考えてくださったKPのイルハさんに感謝を。

※以下、「スクワレルモノ」のネタバレを含みます。PL予定の方は閲覧をご遠慮ください。

 

 

 

【人物紹介】

草加葵[くさかあおい](29歳男性/私立探偵/PL:猫)
本作の主人公。草加家三男。「草加探偵事務所」という名の小規模な探偵事務所を営む男性。何度か神話的事象に遭遇した結果、閉所恐怖症と反芻言語、特定の人物への恐怖症を発症している。とある依頼をきっかけに出逢った少女あめを助け、事務所で引き取って同居生活を始める。短編作成時の《クトゥルフ神話技能》は31(現在は42)。

草加あめ[くさかあめ](10歳女性/小学生/PL:猫)
草加葵に引き取られ、彼と同居している少女。母親からの二度の殺害未遂、義理の父親からの性的虐待を受けた過去がある。内気で臆病な性格で、自分から進んでコミュニケーションを取ることは苦手。現在は私立の某小学校に奨学生として転入している。

③空色疾風[そらいろはやて](19歳青年/コンピューター技術士/PL:ツキナミ)
コンピューター関係の内職に就いている青年。かつてゲーム仲間としてハンドルネームを通して葵との接点があったが、草加家長男こと草加隼人のコネで事務所を訪れ、リアルでの遭遇を果たす。以来、事務所に遊びに来るようになる。葵や隼人とともに神話的事象に遭遇している。《クトゥルフ神話技能》は8。

④里原椿[さとはらつばき](21歳男性/事務員/PL:あさ)
草加診療所」の事務員として働いている男性。医師免許を取るために復学を目指して勉強している。外見から性別の判断が付きにくく、非常に整った容姿をしている。葵や怜とともに神話的事象に遭遇している。《クトゥルフ神話技能》は23。

⑤小鳥遊悠[たかなしゆう](22歳男性/作家/PL:ぴー)
草加診療所」の患者にして、巷では著名な作家。好奇心旺盛で、情報収集という名のネタ探しに日々奔走している。過去に遭遇した神話的事象によって白鳩になった「草加深緑(くさかみどり)」という少女と行動をともにすることが多い。また、葵や怜とも神話的事象に遭遇している。《クトゥルフ神話技能》は31。

草加翡翠[くさかひすい](17歳少女/メイド/PL:猫・ぴー)
草加診療所」で草加怜と同居している少女。元々は人造人間とでも呼ぶべき存在だったが、奇跡的に一命を取り留め、人間としての生活を享受している。料理は得意分野。とある神話的事象に遭遇した際、怜と結婚指輪を交換している。《クトゥルフ神話技能》は3。

草加怜[くさかれい](34歳男性/医者/PL:猫)
草加診療所」所長にして医者。草加家次男。鋼メンタルにして重度のお人好しの鈍感系。とある神話的事象に遭遇した際、翡翠に告白し、結婚指輪を交換している。《クトゥルフ神話技能》は30。

 

 

 

 手に握りしめている携帯電話を操作しないまま、しばらく時間が経っている。
 それは分かっていた。何と言って切り出すか思いつかないのだ。少なくとも、一言二言で説明できる気はしない。どう転んでも面倒なことになる予感しかしない。ただ、それでも。
『俺も捻くれ者で爪弾きで、独りぼっちだったよ』
『でも、俺は依頼されたんだ。「お前を守れ」って。それに応えるのは「探偵」の仕事なんだよ』
『……知り合いにお前と年齢が近い子がいるんだよ、きっと仲良くなれる。この世界には、お前の知らないことも、もっとたくさんあるはずなんだ』
『だから、もし生きていきたいって思うなら、俺の手を握れ! お前の口から「生きたい」って言ってくれよ!!』
「……約束、しちまったからな」
 あの時に言い放った自分の言葉を振り返る。少女のことを思い返し、改めて引き合わせなければならないと、自分の気持ちを奮い立たせた。
 意を決し、液晶画面に表示させていた連絡先のボタンを押す。無機質な通信音が続く。しばらくしてから、相手が通話に応じた音が短く鳴った。
『葵か、どうかしたのか?』
 電話先の声は連絡先に表示されている人物の声に間違いなかった。
「どうかしたのか、というか……あー……いや、さ……」
『随分煮え切らないな。何かあったのか? 電話だと伝えづらい話か?』
「……俺、十歳の女の子と同居することになったんだ」
『…………………は??』
 突然の告白を受けて、電話先の声もとい草加怜の声色は素っ頓狂なものになった。

 

 

「葵君、草加探偵事務所を発つ」 -Dice or Die-

 

 

 草加探偵事務所に束の間の平穏が訪れている、ように見える。
 コポコポと珈琲を淹れる音。油を敷いてベーコンを炒める音。いつもは別の何かにかき消されるようなそれらが、お互いに無言を貫いているせいでやけに大きく感じられた。
 古びたアパートの一室に似つかわしい、手頃な広さのキッキンスペースの前で手際よく昼食を作りつつ、ちらと後ろを見る。ソファーの上にちょこんと座り、本を読んでいる黒髪の少女の姿があった。
 彼女……あめと同居を始めたのは、つい一週間ほど前のことだ。当時は諸々の申請に四苦八苦したものの、今では草加家への養子縁組や某私立校への転入届など、書類上の手続きは不自然なほど滞りなく済んでいる。ただ、肝心の彼女との関係は少々ぎこちない。俺に対して多少なりと心を開いてくれているとは思うが、心の傷は相当に深いらしい。
 塩と胡椒を手元のフライパンの中身に振りかけ、軽く混ぜ合わせる。ようやく完成したペペロンチーノを二人分皿に盛ってテーブルに並べれば、あめは読んでいた本を脇に置いて食卓に付いた。まさにそんな時だ。
「葵さん、お邪魔しまーす!」
 事務所側の扉が開いた音と、若い男性の元気のよい声が狭い空間に木霊する。あめの肩がびくりと跳ねたかと思えば、何故か俺の足下に駆け寄ってきた。第一声で誰が来たのか理解はできたが、相手が相手だけにこんな姿を見せたくはない。しかし、一時期は事務所の客として仕事を回してくれた人物でもある。このまま居留守を使うわけにもいかない。
「……そんな勢いよく開ける必要ないだろ、扉壊す気かよ」
 溜め息交じりに居住空間から事務所側に姿を見せれば、そこには二十代にも満たないような黒髪黒眼の青年が待ち構えていた。彼……空色疾風は、俺と足下にいるあめを見るなり、以前プライベート用だと言っていたスマートフォンを取り出した。
「まさか、そんな……! いや、魔がさすことなんて誰にでもありますし、とりあえず警察に届けましょう? そうしましょう?」
「届けるか馬鹿! 言いたいことは山ほどあるが、この子は俺が正式に預かってんだ。人を誘拐犯みたいに扱うんじゃねぇよ」
「預かってる……へぇー、そんなこと本当にあるんですねぇ」
 空色はスマートフォンを操作していた手を止め、俺の足下にいるあめに視線を向ける。
 あめは自分から積極的に話をする性格ではない。初対面で、しかも騒がしい人は特に苦手だ。それもあってか、俺の足下に隠れたまま顔を出さないでいる。
 すっかり怯えきったあめの姿を見た空色は、身体を屈めて視線をあめと同じくらいの高さにする。人当たりのよさそうな笑顔を向けられ、あめがおずおずと空色の方に目線を向けた。
「お名前は?」
「……あめ」
「あめちゃんていうの? 僕は空色疾風っていうんだ。あめちゃん、ルックスもそうだけど名前も可愛いね。葵さーん、あめちゃん凄く可愛いじゃないですかー、手出しちゃダメですよー?」
「誰が出すか、誰が!」
「……大丈夫ですよ。葵さん、こんな感じでぶっきらぼうだけど、何だかんだ面倒見のいい優しい人ですから」
「えっ……?」
「あ、あと僕のことは『空お兄ちゃん』とか『はや兄』とか自由に呼んでくれていいから。これからよろしくねー」
「は、はい。よろしく、お願いします……」
 空色のテンションに釣られたのか、空色から差し出された手をおもむろに握り返す。こういうコミュ力はさすがの一言だった。
「……で、今回はどういう要件だよ。一応、以前受けた依頼に関しては報告書送ったよな?」
「はい。ですので今回は純粋に遊びに来ました!」
「『遊びに来ました!』じゃねえよ。こっちは昼食を食べた後、出かける用事があんだよ」
「え、葵さんのところに依頼が来たんですか?」
「いつも依頼が来ないような言い方するんじゃねえ」
「うーん、予定があるなら仕方ない……か。それなら今日はお暇させてもらいますね。あめちゃんも葵さんもまた今度―!」
 意外にもあっさりと了承したかと思えば、空色は俺とあめに対してぶんぶん手を振り、事務所を後にしていった。
「……全く、慌ただしい奴だったな。あめ、早く食べちまおうか」
「う、うん」
 空色には一切言わなかったが、外出の予定があるのに事務所の外に「休業中」という札を掛けなかった俺も悪かった。内心、無闇に動揺させてしまったあめに謝りつつ、居住空間に戻ることにした。

 

 

 人を背中に乗せてバイクを走らせるのは初めてだった。しかも、それが自分より圧倒的に小さいあめだったこともあり、運転には大分注意を払った。結果的に、一人だと一時間弱という行程を休憩も含めて倍以上の時間をかけて走らせ、ようやく草加診療所の前に辿り着いた。
 ゆっくりと二階建ての建物の前にバイクを止める。あめが子供用のヘルメットを外してその場に降り立つが、到着した建物を見た途端、彼女の体が不自然に震え始めた。
「っ……!!」
「あめ、どうした?」
 その場にバイクを立て、あめの下に駆け寄る。彼女は今にも泣き出しそうな瞳を俺に向けて、か細い声でぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「お、お医者さん、のところに、行くの……?」
 問うまでもない。あめが「医者」に対して忌避感を抱いているのは見れば分かる。俺と出会う前に、彼女に恐怖感を抱かせる出来事があったのだろう。明らかに、いつものあめの様子ではなかった。
 事前に「会わせたい人がいる」とは言っていたが、医療関係の人とまでは言っていなかった。今日はつくづくあめに酷いことをしているな、と自責の念を抱く。俺はあめの横で屈み、彼女と目線を合わせてから頭を下げた。
「……悪かった。無理強いはしないし、辛そうならすぐ帰る。だけど、ここにいるのは俺の自慢の兄貴と、兄貴が預かってる女の子なんだ。できれば会って、仲良くやってほしい」
「あ、葵さんが、そこまで言うなら」
「……いいのか?」
 無言で頷くあめだったが、明らかに手足の震えは収まっておらず、表情にも怯えが残っている。一瞬、俺は躊躇ったが、自分の右手をあめの前に差し出した。
「え……?」
「少しは気休めになるだろ。よければ握ってろよ」
 いつもはあめが俺の足下に近寄ってズボンを掴んでいるだけなので、俺があめと手を握るのはこれで二度目だ。
 あめはやけに嬉しそうに頷き、俺の手をぎゅっと握る。年相応の握力を、小さな手の温もりを感じながら、俺は診療所の扉を開けた。

 

 扉を開ければ、空調の効いた清潔な待合室が広がっていた。受付には白髪水眼の青年が座っており、無意識のうちに女性を引き付けてしまいそうな朗らかな笑みを浮かべていた。
「こんにちは。診察券か保険証を……あ、草加さんでしたか」
「……里原か、久しぶりだな」
「今日は可愛いお客様もご一緒なんですね」
 青年……里原椿はそう言って、隣にいるあめを見て尋ねる。あめは俺の手を握りながら、その場で軽く会釈した。
「お客様ってわけじゃねぇけど、怜兄と翡翠さんに会わせたくてな。事前に怜兄に話は入れてあるけど、ここで待たせてもらっても構わないか?」
「そういうことでしたら、どうぞ。おかけになってお待ちください……なんてね、言ってみたかっただけですよ」
 そう言って、里原は受付側から待合室側に出てくるが、咎める者は誰もいない。怜兄の指定した時間とあって、俺達以外に患者の姿は見えないからだ。その辺はきちんと配慮してくれたらしい。
 待合室の適当な椅子に腰かければ、あめの隣に里原も座る。あめは一瞬びくりと身体を震わせたが、里原が更に屈んで目線を合わせ、穏やかに微笑む様子に警戒心を緩めたようだった。
「初めてまして。僕の名前は里原椿です。よかったら君の名前を教えてほしいな」
「あめ、です」
「そっか、いい名前だね。よろしくね、あめちゃん」
「よろしく……お願いします」
「……そういえば里原、お前最近は随分忙しいんだな?少し前まではしょっちゅう事務所に来てたくせに」
「あぁ、模試のためにずっと勉強をしていたんです。おかげで手応えがあったんですよ!」
 取ってつけたようなことを言いやがって、と内心で毒づく。あめの前では追及できないが、ちょうどあめを引き取った辺りから、明らかに里原が事務所に来る頻度が減っている。俺のことが嫌いだから、というわけではないだろう。この青年の内側に秘めた想いを垣間見た者としては、恐らく先ほどの考えとは真逆の発想だと予想できる。だからこそ気に食わない。
 あめとの話が弾み出した里原を横目に、怜兄達を待つ。里原曰く「今は診察中なので、あと少しすれば出てきますよ」とのことだ。
 そして、里原の言葉どおり、数分程して診察室の扉が開いた。中から出てきたのは二十代前半の黒髪黒眼の男性だ。しかし、男性の肩にはちょこんと白鳩が乗っており、側から見れば大分訳の分からないことになっている。ただ、生憎と俺には見覚えのある光景だった。
「……げ、小鳥遊。何でこんなところに」
「あ、葵さんお久し……ちょっと知り合いの警官に電話しますね!?」
「電話するんじゃねぇ秒で通報かよ!?」
 携帯電話を取り出した男性……小鳥遊悠を慌てて制止する。正直、空色なら事情を話せば分かってくれそうだが、この好奇心旺盛な作家の場合、説明をしても誤解を招きかねない。
「怜さん、どうして止めなかったんですか!弟さんでしょう!?」
「そ、そんなこと言われても……って小鳥遊さん、葵と知り合いだったんですか!?」
 そうこうしている間に、小鳥遊は診察室に戻ったかと思えば、診察室にいた白衣の男性を引っ掴んで待合室に引っ張り出した。俺の二番目の兄である草加怜その人である。
「……ったく、この子は俺の養子だよ!最近一緒に暮らすことになったんだよ!」
 いい加減にしろよお前、と念を込めて小鳥遊を睨み付ける。さらに、俺の影に隠れながら、あめが僅かに顔を出してこくこく頷いた。握られている手は小刻みに震えているのに、律儀に俺のことを庇おうとしているのだろうか。
 あめの反応を見た小鳥遊が騒ぐのを止めたかと思えば、ぼそりと一言。
「いやぁ、てっきり入り浸ってる子を手篭めにしたのかと」
「『手篭め』なんて言葉、児童の前で言ってんじゃねぇよ」
 あめが何のことを言っているのか理解できていないのが唯一の救いである。空色といい小鳥遊といい、俺のことを一体何だと思ってんだろうか。
「私も事情がよく分かっていないんですが……その辺り、詳しく聞かせてもらえるということで、今日会う約束をしていたんです」
「なるほど……そうだったんですね」
 すかさず怜兄が合いの手を入れたこともあり、小鳥遊は一人得心がいったように頷いている。上手く誤解が解けたようで何よりだ。
 一方で、あめの様子がいよいよ怪しくなっていた。白衣姿の怜兄が診察室から現れたのを見てから、あめの怯え方が悪化している。これ以上、あめをこの場所に置いておくのはまずい。
「……怜兄。事情を話すにしても、上に上がらせてもらってもいいか?」
「ああ、分かった」
 俺の隣にいるあめの様子に気付いてくれたのか、怜兄はすぐに了承した。
翡翠さん、案内をお願いできますか」
「はい」
 怜兄が診察室の奥へ声をかければ、淡い黄色のワンピースを着た白髪の少女が待合室へとひょこっと顔を出した。新年以来の再会となる彼女……翡翠はにっこりと微笑み、こっちにどうぞ、と診療所から居住階層に続く階段を手で指し示す。手を振る小鳥遊と、彼の肩に止まる謎の白鳩に見送られ、俺達は翡翠の後に続いて階段を上った。

 

 慣れた手つきで準備された紅茶が目の前に置かれた。行儀は悪いがコースターはそのままで、慣れない左手でティーカップを持って口へ運ぶ。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、思わず溜め息が漏れた。
「飲んでみろよ、美味しいぞ」
 隣にいるあめに勧めれば、彼女の前に置かれたティーカップと俺の顔を交互に見比べ、おずおずと俺の右手を離す。ティーカップを両手で持って飲めば、診療所に来てから怯えていたあめの顔に自然と笑みが溢れていた。
「美味しい……」
「よかった、おかわり淹れますね」
 向かい側のソファーに座っていた翡翠が、手元のティーポットから再度ティーカップに紅茶を注ぐ。淹れてもらっている間に、あめに対して翡翠の紹介を入れておく。
「あめ、こいつが草加翡翠。俺の兄貴のところで預かってる子だ」
 あめは俺の言葉を聞いてこくりと頷き、軽く頭を下げて翡翠からティーカップを受け取った。
翡翠、こいつはあめ。見ての通り引っ込み思案な奴だから、俺のところに来るようなガキ共とそりが合わなくてな。俺が知ってる中で年齢が近くて大人しそうな奴と引き合わせたいって思ってたんだ」
「私もお友達ができるのは凄く嬉しいです。よろしくお願いします」
 頭を下げる翡翠につられて頭を下げつつ、嬉しそうにティーカップを口へ運ぶ。よほど美味しかったのか、二杯目もあっという間に空になる勢いである。
「遅くなって申し訳ない」
「……っ!!」
 そんな折、リビングに私服姿の男性がやって来た。先程白衣を着ていた男性だと気付いたのか、あめが引きつった声を上げて俺の腕にしがみ付く。
「大丈夫だ。俺の二番目の兄貴で、草加怜。馬鹿が付くほどの正直者だよ」
「馬鹿は言い過ぎだ」
「……ああ、それともこう言った方がいいか?『結婚おめでとう』」
 怯えるあめの背中を優しくさすりながら、いつ怜兄達に言ってやろうかと思っていた一言を告げる。
 途端に、翡翠は頰を赤らめて両手で顔を隠した。そんな彼女の左手薬指には銀色の指輪が嵌められている。
「ち、ちょっと待ってくれ。お前その記憶……!?」
「記憶? 当然あるに決まってんだろ。これ見よがしに左手薬指に指輪はめてるくせに何を今更」
「そういうことじゃない、お前もひょっとして……!」
 同じく、怜兄も珍しく動揺を隠しきれずにいたが、どうやら翡翠とは別の意味で驚いているようだった。
 無理もない。俺が言った「結婚」というのは、あくまでも寝ている時に視た夢の中での出来事だ。普通ならただの夢として意に介さないだろう。異形と邪神が跋扈する不条理な世界に踏み入ったことのない普通の人なら、の話だが。
「……そうだよ。俺も何度も出くわした。何なら、里原や小鳥遊と巻き込まれたこともある。兄貴もそうなんだろ?」
 里原や小鳥遊の名前も使って問い質せば、怜兄は観念したように小さく溜め息を吐き、言葉を漏らした。
「……心配をかけると思ったんだ。何より、何を言っても信じてもらえないだろう?」
「信じるか信じないかは俺が決めるよ」
「お前らしいな」
 困り顔を浮かべる次男の姿を見てか、俺の腕をしがみ付くあめの警戒心が少しずつ解けていくのが感じ取れる。ただ、視線だけは怜兄の一挙手一投足に注目していた。
「ほら、あめ。お前もいい加減何か言ってやれよ。怜兄は俺と違って生真面目でいい奴だからさ」
「……から」
「から?」
「葵さんの方が、いい人ですから」
 やや膨れ面を浮かべて俺の腕から顔を少しだけ出したあめの一言に、その場にいた全員が固まり、直後笑い声が零れた。
「随分好かれているんだな」
「好かれて……ってそんなこと、おい、あめも何とか言えって!?」
 怜兄と翡翠が微笑む様子にいたたまれなさを感じつつも、俺も満更でもない気持ちで苦笑いを浮かべていた。

 

 

 遠くからの喧騒に起こされ、ゆっくりまぶたを開ける。今が何時か携帯を確認すれば、ちょうど昼を回った頃合いだった。先程まで寄りかかっていた冷たいコンクリートの壁に再度身体を預けつつ、息を一つ吐く。
『また、私、一人になるんですか……?』
 今日の朝は、ああするしかなかった。そうでなければ、きっとあめを傷付けていただろう。辛うじて正気を保ち、彼女を遠ざけたはいいものの、あめにとっては俺からの拒絶に他ならない。
 彼女が呆然と立ち尽くし、零した言葉を思い出す度に胸が痛んだが、今の俺が側にいてはいけない。誰も来ないような路地裏の片隅に座り込み、外界との接触を極力断っているのもそのためだ。
 色彩を映さなくなった視界がぼんやりと歪む。何度か自分で噛みつき、皮膚を食い破った右腕によって、ここが紛れもない現実だと痛感させられる。幸せだった過去に戻ることはできない。狂気に堕ちることも許されない。そんな状況下で、俺が戦う理由。
「……約束、しちまったからな」
 あめが「生きたい」と望む世界を守るために。それが、堕ちるところまで堕ちてしまった俺にできる、唯一のことだから。