リーフィアと歩む緑の軌跡

大好きなリーフィアとともに歩む日常。最近はクトゥルフ神話TRPGを嗜んでいる。

短編「2019.12.08→2022.04.08」

[2022.04.08 12:00 都内某大学病院]

目が覚めたら、知らないところにいた。あわてて体を起こすと、白い天井やかべのある部屋にいることがわかった。たぶん、ここは病室なんだと思う。でも、なんで私は病室にいるんだろう。
外から太陽の光が入ってきてまぶしい。スズメの鳴き声も聞こえてくる。部屋にあった時計は十二時を指していた。
近くにはナースコールと呼ばれるものが置いてある。これをおせばだれか来てくれるはず。でも、きっとお医者さんが来てしまう。
そう考えていると、トントンと戸をたたく音が聞こえてきた。息を吸う声が高く鳴る。お医者さんが来る。そう考えただけで手足がふるえる。こわい。
「……あめちゃん?」
聞いたことのある声がして顔を上げると、ちょうど今部屋に入ろうとしている白髪の女の子と、その後ろに見たことのある男の人がいた。私服を着ている二人の目が大きく見開かれている。
翡翠さんと、草加……さん?」
「あめちゃん! 目が覚めたんですね!」
翡翠さんは私の方にかけ寄ってきて、私の側に座って手をにぎってくれた。翡翠さんのうれしそうな顔を見ていると、気持ちが少し楽になる。知っている人が近くにいるだけで、体のふるえが小さくなった気がする。
草加さんも翡翠さんのとなりに座り、目の高さを合わせて話しかけてくれた。
「久しぶりです、あめさん。気持ち悪いところや、痛いところはないですか」
「……っその、あっ、あの……」
まだ草加さんのことは苦手だ。お医者さんはこわいから。でも、最初に会った時に「生真面目でいい人だ」と教えてもらった。ただ、話してみるも、なかなかうまくいかない。
「無理はしないでください。起きたばかりですから」
「あっ、あの、葵さん……は、どこですか」
何とか聞きたかった質問ができたが、二人は困ったように顔を見合わせてしまった。何か、言いにくいことでもあるのだろうか。
私を見て草加さんはしばらく考えこんだ後、ゆっくり口を開いた。
「……あめさん。今がいつか、分かりますか」
私は自分の思う日付を答えた。それを聞いた翡翠さんの顔が、少しだけ悲しそうになった気がした。
「落ち着いて聞いてください。今は、その日付から二年ほど経っているんです」
草加さんの言葉は、ウソじゃない。葵さんといっしょにいるようになって、ウソとそうでないことのちがいは何となく分かったから。でも、草加さんの言葉が本当だとしたら、一体何が起こっているのだろう。
「正直なところ、長い間眠っていた理由はよく分かっていません。ただ、あめさんが寝ている間に一つ、大きな事件がありました」
この先を聞いたらいけないような気がする。そして、そんないやな予感は当たってしまった。
「葵の行方が、分からなくなったんです」
「……え」
ゆくえふめい。言葉の意味はわかるけれど、理解したくない。いやだ。だって、それって。
「葵さん、が、いなくなったんですか……?」
「……ええ。事務所に大量の血液を残して、姿を消してしまいました。それから私は一年ほど、連絡が取れていません」
足下から地面が消えてなくなったような気分だった。けつえき? れんらくが取れない? 何があったのか分からないけれど、一つだけはっきりしていること。今、葵さんはいない。いなくなっている。葵さん。何で。どうして。
「あめちゃん……」
翡翠さんが私の手をずっとにぎってくれている。心配している視線は感じるけれど、頭がこんがらがってどうにもならない。どうしよう。
「わ、私の……私のせい、ですか?」
「そんなことないよ。あめちゃん、何言ってるの?」
「だって、私がずっとねたままだったから……!」
「それは違います」
はっきりと、草加さんが答えた。優しくて力強い言葉だった。
「葵の行方が分からないことは、あめさんに非があるわけではありませんよ」
「そ、そうなんでしょうか……?」
「ええ。少なくとも私や翡翠さんはそんなこと思っていません」
「もちろんです!」
側にいる翡翠さんからも元気の良い言葉が返ってくる。少しだけ安心できた気がした。その様子を見て、草加さんが不意に頭を下げた。
「……すみません。起きたばかりの子ども相手にする話ではありませんでした。ただ、嘘を吐いたりごまかりたりするのは誠実でないと思ったので……申し訳ない」
謝罪の言葉にもウソはないように感じる。子どもの私を一人の大人として扱ってくれる。葵さんの言うとおり、きまじめな人なのだと思った。
「葵の行方は今もいろんな人が捜しています。私も、葵が生きていると思っています。少しでも可能性があるのなら諦めない。それが、医者としての本分ですから。……あめさんは、どう思いますか」
「……生きているなら、また、会いたいです。いっしょに、いたい……です」
私が二年もずっとねていたから、葵さんは私のことをキライになっているかもしれない。だから、まずはごめんなさいって謝りたい。それで、もしゆるしてもらえたら、またいっしょにいられるようにお願いしてみようと思う。
「葵のこと、捜したいですか」
「は、はい」
「それなら今、あめさんがすべきなのは、体の調子を整えて退院することです。そのためには、お医者さんに診てもらう必要がありますよ」
「……っ」
そのとおりだと思う。でも、「お医者さん」という言葉を聞くと、どうしても体がかたまってしまう。
「大丈夫です。幸いあめさんの主治医は私の知人です。悪い人ではありませんから、安心してください。もし不安なら、彼の診察中私たちが付いていましょうか?」
翡翠さんがゆっくりとうなずいて、私の返事を待ってくれている。でも、そこまでめいわくはかけられない。それに、葵さんをさがすためにお医者さんにみてもらわないといけないなら、これくらいは一人でできないといけない。葵さんと会うためだと思えば、少しは勇気が出せる気がした。
私が首を横にふると草加さんはすこしおどろいたけれど、おこったりとがめたりはしなかった。
「……分かりました。何かあればいつでも連絡してください」
草加さんはポケットから小さな紙を取り出して私にわたした。受け取って見ると、それはめいしだった。しんりょうじょとけいたい電話の番号が書かれている。
「そろそろ病院の方々が来る頃合いです。あとはあちらの方達に任せましょうか」
「お大事に! またお見舞いに来ますね」
にぎっていた手をそっとはなして、翡翠さんが笑いかけてくれた。
草加さんたちと入れかわるようにして、お医者さんとかんごしさん二人がやって来た。白衣を見ると息がうまくのみこめないような気がしたが、お医者さんがやさしく接してくれたので、何とかがんばってできた、と思う。その後、聞かれたことに何度か答えると、お医者さんは部屋を後にしたので、とりあえずひと安心できた。
部屋に残ったかんごしさんたちは、私につながっていたてんてきを付けかえたり、身のまわりをきれいにしてくれたりした。
そのとき、かんごしさんがこんなことを話していた。
「目が覚めたって話、あの人が聞いたら喜ぶでしょうねぇ」
「あの、人……?」
「あなたが入院してからずっと、毎日ほとんど欠かさずに見舞いに来ていた人がいたのぉ。帽子を被った金髪の男の人。最近めっきり来なくなっちゃったけどねぇ」
葵さんだ。私の知っている人の中で、そんな男の人は一人しか知らない。
「ここに座ってね、穏やかな顔であなたに話しかけていたのよぉ」
さっき翡翠さんがいたところを指して、かんごしさんが言った。そこに座っている葵さんを想像する。いっしょにいた時間は短かったけれど、葵さんのやさしい顔を思い出せば、胸がしめつけられるような感じがした。
会いたい。声が聞きたい。話がしたい。どこにいるんだろう。もし生きていたら、私が目をさましたことをよろこんでくれるのかな。
そんなことを考えながら外に顔を向けると、桜がとてもきれいにさいているのが見えた。

 

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[2022.04.08 21:00 都内某高層ビル]

この日、俺の望みは叶った。自分の手で叶えることはできなかった。だが、叶わないかもしれないと思っていたことが、不意に叶った。
世話になっている同居人から得た情報に目を通していた時、不意に目に留まった文字列。一瞬思考が停止し、意味を把握するまでに幾許かの時間を要した。そして、内容を理解した時、真っ先に内から溢れた感情は自分への嘲りだった。
「……そういうことかよ」
俺が何をしようとあめの目を覚ます術はない。それどころか、俺が何もしなくても、あめは勝手に目を覚ます。
最初から解っていたのだ。その事実を知っていながら、ありもしない術を懸命に探す俺を嗤っていたのだろう。そうでなければ、あのいけ好かない男がわざわざこの日を俺に提示するはずがない。
「はは……はははは、ははははははは!!!」
気がつけば、乾いた嘲笑を狂った時計のように吐き出していた。王子様になんてなるつもりは微塵もなかった。だからと言って、何もせずにいられるわけがなかったのだから仕方ない。結局は掌の上で踊らされていただけだ。さぞや滑稽な話だろう。
「はは、は、は……っ、…………はぁ」
久々に声を出して笑った気がする。どのくらい声を出したか分からないが、疲労感と倦怠感に襲われて大きな溜息を吐く。
「……そうか。あめ、目が覚めたんだ。……よかった」
一度落ち着いて口にすれば、ようやく実感が湧いた気がした。自分が道化であることに変わりはない。ただ、どんな形であれ俺の望みは叶った。それ自体は紛れもなく嬉しいことだ。時間はかかるだろうが、これでようやく、あめも普通の生活が送れるようになる。
「……なら、俺はもう用済みだな」
あめの目を覚ますためだけに選択した、第三の生。これまで「望みが叶ったら何をするか」なんて考えている余裕はなかった。ただ、事ここに至って目的が達成し、次に思い付いた行動は「自分の命を断つこと」だった。
俺は何度も死んだ身だ。今更死ぬことに忌避感はないし、自然の道理でもある。そもそも、俺があめの近くにいれば厄介事に巻き込むかも知れない。元凶は消滅した方がいい。都合の良いことに今の俺は消息不明の身だ。
問題は、俺の生存が何人かに知られていることだ。もちろん自分から公言したわけではない。だが、知人の刑事には嘘を看破され、自称弟子には居場所を探られて追い詰められた。しかも厄介なことに、二人共あめと近い位置にいる人間だ。
草加葵の存在を捜す人間がいる限り、あめは俺を忘れられない。あめには俺みたいな奴のことなんて忘れて、平穏な日常を生きてほしい。そのためにも、あめが俺のことを心に留めたままでは意味がない。
時刻は夜の九時を過ぎた頃。電話を入れるにはやや遅い時間帯だが、あの人なら許してくれるだろう。
長い間使っていなかった携帯電話の電源を入れる。料金を払っていないので回線は使えない。同居人から連絡用として渡されている携帯を開き、番号を見ながら直接打ち込んだ。しばらくすれば呼び出し音が鳴り始め、それが三度目に差し掛かったところで音が切れた。
『はい、我家ですが』
「お久しぶりです、我家さん。『やることが終わった』ので、連絡しました。とっ捕まえられるのは嫌なので」
『ほう、それはそれは。お疲れ様でした、と言っておきましょうか。まぁ、有給休暇を取る口実が一つ無くなってしまったのは残念ではありますが』
電話の向こう側にいる刑事こと我家さんは、失踪中の知人から電話がかかってきたというのにさして驚いた様子を見せなかった。それどころか軽い冗談混じりで会話するあたり、さすがと言うべきだろうか。
「お疲れ様、なんて言われるようなことはしていません。それと、有給休暇は自分のために使ってください。……貴方との約束は果たしました。次は、俺とも約束してくれませんか?」
相手の軽口に指摘を投げつつ、一呼吸置いて交渉事を差し込む。以前、「俺のやることが終わったら連絡をするように」なんて約束を一方的にさせられたのだから、利用しない手はない。
『約束を守ったから今度は約束をしろ、とは後出しで怖いことをおっしゃる』
「先に約束を押し付けてきたのはそちらでしょう?」
『守るかどうかは保証できませんが、それでよければ話は聞きましょう』
「……あいつに、あめに、俺が生きていたことを伝えないでほしい。あめには『草加葵は死んだ』と伝えてくれ」
今度こそ、我家さんの返答が止まった。さすがに驚いたのか、数秒の間を置いて電話口から諭すような口調で言葉が返ってくる。
『そういう大事そうなことを人に任せるのは良くないと思いますがねぇ。私ぁ、あなたに信用されるほど誠実でもなければ、嘘を信じさせられる程あめさんに信頼されてませんから』
「俺はもう、あめとは会わない。これを最後に携帯も放棄するし、今後は完全に消息を断つ。だから、信用とか信頼とかいう話じゃない。伝えるのが早いか遅いかの違いだ。なら、早く伝えた方があめのためだ」
『あめちゃんのためというなら、あなたが帰ってくるのが一番あめちゃんのためだと思うんですがねぇ』
その意見に対して、俺はあえて返答しなかった。むしろ、沈黙こそが自分にできる誠実な回答だった。それが何を意味しているのか、我家さんが理解しているかは分からないが。
『あなたの意思は固いようだし、その意思を曲げられる言葉も私ぁ持ってませんからね。あなたの意思は最大限尊重しましょう』
交渉の目があるとは思っていたが、もっと反対されると踏んでいただけに虚を衝かれた。ただ、その申し出が有難いことに変わりはない。
「……ありがとうございます。悪いですが、後のことは任せます。怜兄は理解があるから上手いこと進めてくれるはずだけど、近くに警察関係者がいるのは助かるので」
素直に感謝の意を伝え、その後についてもそれとなく伝えておく。情報が入れば自然と気にかけてくれるだろう。
『全く、人を信じすぎるのは貴方の悪い癖ですよぉ?』
我家さんは小さく溜息を吐いた。
『ただ、あなたがもし……もし見つかってしまった時には擁護しませんので、そのつもりでお願いしますよ』
「擁護も何も、見つからなければいい話でしょう。……それじゃ」
見つからなければいいとは言ったものの、残念ながらその可能性は拭えない。自称弟子に痕跡を辿られた前科もある。ただ、自分からそのことに触れる必要も、無理に電話を長引かせる意味もない。
そう思い、簡潔に別れの言葉を残して切ろうとした直後。
『いつまでも子どもを子ども扱いしている人は、その子どもに足を掬われるんですよ? 草加葵さん?』
我家さんは何やら謎めいたことを言い残し、電話が切れた。
「……子ども、か」
誰のことを言いたいのか、言外に何をしろと言われているのかは容易に察せたが、それを行動に移す気には到底ならなかった。
気持ちを切り替えて別の連絡先を打ち込む。正直、こちらの交渉は失敗する可能性が高い。何を言っても仕方ないかもしれないが、釘を刺しておいて損はないはずだ。呼び出し音が鳴った直後に回線が繋がり、電話口から明快な声が響いた。
『お電話ありがとうございます。草加探偵事務所、所長代理の霧原と申します。……なんてね』
「代理なんて頼んだ覚えはないんだが。……まぁいいか」
『まぁ、代理をしては駄目とも言われてませんからね。それで、師匠から電話なんて、どういう風の吹き回しだい?』
俺のことを師匠と呼ぶ元女子高生こと霧原は、俺からの電話に対して特に動じることなく要件を尋ねてきた。
「今日、あめの目が覚めた話は知ってるな」
『お話は聞いていますし、近いうちにお見舞いに行くつもりですよ』
「……まだ接触してないなら好都合だ。お前に一つ言っておくことがある。俺はもう、あめに会うつもりはない。あめに、俺が生きていたことは伝えるな」
『それはまた妙なことを言うね。あれだけ助けるために奔走したのに、どういうことだい? もしかして、また変に考えすぎてるんじゃないかい? 師匠の悪い癖だよ』
「……あめの目を覚ます手段を探していたのは事実だが、そのこととあめに会うことは別の話ってだけだ。ともかく、目的が達成された以上、今後俺は消息を絶つ。だから、あめには『草加葵は死んだ』とでも伝えてくれ」
ここまで明朗な返答を続けていた霧原の言葉が、初めて止まる。無言の時間が続く中、直接相対していないはずなのに、霧原の目が据わったような気がした。
『そんなこと言うけど本心は違うんだろう? それに、師匠がどう思っているかは分からないけど、少なくともあめちゃんは師匠に会いたがっていると思うよ』
「本心も何も、これが俺の本心だよ。それに、どんなに会いたかったとしても死んだ人間には会えないだろ」
余計な一言を漏らしたことに気づく。我家さんには言う必要がなかったというのもあるが、霧原相手だと口が滑ってどうにもやりにくい。
『では、私は今幽霊と通話しているんですか? 冗談じゃない。命があるのに死んだことにして逃げてどうするんですか。私や師匠みたいに厄介事に巻き込まれやすい人間はいつ本当に死ぬか分からないんですよ?』
「……厄介事に巻き込まれやすい、か。確かにそのとおりだな。命の危機を何度経験したか数えきれないくらいには、な」
だからこそ、あめを同じようなことに巻き込むわけにはいかない。
『私も何回経験したか分かりませんよ。それに、化け物も嫌というほど見ましたから』
俺の言葉に同意した霧原が、電話の向こう側で苦笑した。
『……まぁ私は、逃げるのは悪くないと思います。でも、巻き込みたくないんだったら、せめてあめちゃんにはきちんとお別れをするべきだと思いますよ? 猫の国で助けてもらった時に分かったんです。師匠の存在が、あめちゃんにとってどういうものか……いえ、きっと私が思っているよりも遥かに大きいでしょう。だからこそ、きちんとケリをつけるべきです』
放り込まれた霧原の一言に、俺は返答を窮する。こちらの返答がないことを察したのか、霧原の言葉はさらに続いた。
『人の死なんて、人伝えだけじゃ納得いかないんですよ。私だって、状況的に考えれば普通に死んでるはずの師匠が雲隠れした時も「死体が無い」「師匠がそう簡単に死ぬはずない」って思って常識を否定して、探し続けたんです。私よりも師匠を必要としているあめちゃんが、私や他の人に言われたからって絶対に納得なんてできないんです』
言い方は違うものの、我家さんも霧原も同じことを言っている。「俺の選択は否定しないから、直接あめと会ってきちんと話をしろ」と。その方法を取ろうとしなかったのは、正直、俺に覚悟がないからだ。
『それに、師匠だって見たことあるんじゃないですか? 大切な人の死を受け入れられずに道を踏み外してしまった人を。きちんとケリをつけないと、彼女が道を踏み外す可能性は高いと思いますよ』
「そうやって道を踏み外してほしくないから、伝言を頼んでるんだけどな。……お前も早々に諦めていればよかったんだ。何を言っても止まらない暴走機関車みたいな知人に心当たりなんてねえよ」
『道を踏み外させたくないなら、きちんと師匠が向き合うことですよ。生きている本人の心からの言葉が一番なんですから。あと、私は元からこういう性格ですよ? でないと高校辞めてまで押しかけ弟子なんてしないですし』
経験者は語る、とはよく言ったものだ。俺の場合、あめの目を覚ますために自ら望んで狂気の世界に足を踏み入れたが、そんな俺の後ろを追いかけてきた自称弟子の言うことは説得力が違う。
『会って心が揺らぐなら、なおさら二人で話し合うべきなんです。頑張ってくださいね、師匠』
舌打ちと共に、俺は一方的に電話を切った。電話の向こう側で霧原がいかにも物知り顔で微笑んだ気がした故の行動だったが、我ながら若い女性に対する態度とは思えない。謝るつもりは全くないが。
無機質な電子音が鳴り続ける中、俺は小さく溜息を漏らした。
あめを厄介事から遠ざけたいのは俺の本心だ。そのためなら、自分の命を絶つことに躊躇いはない。ただ、あめに直接会えば迷いが生ずるという確信めいたものが心の隅に巣食っているのも事実だった。だからこそ我家さんの回答に沈黙で返したのだが、あろうことかそれを霧原に見抜かれるとは。
「く、くく……っ、……っ」
「……笑うなら隠れて笑えばいいだろ」
「ああ、すまない。自称弟子とやらに言い負かされる師匠の顔を拝みたくてついつい出てきてしまったよ」
気が付けば、部屋の扉の前には同居人である一人の女性がいた。俺の方が間借りしている身なので、彼女がいること自体は不自然なことではないが、顔を出してきた理由が不愉快極まりない。
ただ、先程の電話をスピーカーで流していたわけではない。俺が使っている携帯は元々この女性、内海雛子の所有物だ。仮にも闇社会の医者にして情報屋でもある彼女が、盗聴機能の一つや二つ付けていないほうがおかしいだろう。通話の内容が聴かれても言及するつもりはないが、それにしても個人情報が筒抜けにも程がある。
「それはそれとして、君。死ぬつもりなのかい? こう見えて私も多忙な身でね。新しく求人を出す余裕はないんだが」
「お前の多忙とやらに付き合うつもりはねえよ」
「釣れないことを言うなぁ」
そう言って、内海は微笑みながら俺に近づく。背のあまり高くない彼女が俺を見上げる形となり、自然と目と目が合う。口角が上がっているにも関わらず、内海の瞳は一切笑っていなかった。
「君のような実験体といつ巡り会えるか分からない以上、私が易々と手放すなんて考えないことだ」
常より冷ややかな声色に合わせて、彼女の右手が白衣へと伸びる。俺の返答次第では白衣の裏にある薬物を取り出すかも知れない。ただ、脅迫の有無は関係なく、今の俺の返答は既に決まっていた。
「……安心しろよ。どうやら俺は、もう少し身の振り方を考えないといけないようだからな」
その言葉の真意を探るためか、内海はしばらく無言で俺の目を見つめていたが、やがて内海の方から目線を逸らした。
「それは何よりだ」
いつもの軽々しい笑みを浮かべた内海は俺から離れ、白衣から取り出した手で扉のドアノブを握りしめる。
「野暮な話はともかく、そろそろ夜桜を見ながら晩酌を始めたくてね。ツマミを作ってもらわないと困るんだよ。早く来てくれないかな」
「……分かったよ」
俺の望みは叶ったが、望みが叶っても別の問題が生まれるだけだ。少なくとも俺にとっては。それでも、あめにとっては間違いなく大きな変化になるだろう。今の俺にできるのは、これ以上あめの周りで何も起こらないように祈ることだけだ。
ただ、今日くらいは内海に付き合ってやってもいいかもしれない。そんなことを思いながら、俺も部屋を後にした。